アーカイブの考察

 

平安からすでに先例重視

今回は平安貴族と記録について取り上げようと思います。前回は主に朝廷の公文書に関わる話題を取り上げましたが、公文書以外にも貴族個人による日記が多く作られはじめたことがこの時代の記録作成の特徴です。

平安時代の日記といっても有名な紫式部日記や蜻蛉日記などのような女性により仮名で書かれた文学的な日記ではなく、当時の政務を漢字(和風漢文)で記録し、子孫が先例として参考にするために書かれたものでした。平安貴族が先例を重視したことはよく知られていますが、その根拠として日記が重視されたのです。

そうした貴族の日記の一つに摂関時代の藤原実資(さねすけ)が書いた『小右記』(しょうゆうき)があります。今回はその中から有名な刀伊(とい)の入寇関連記事を通して当時の貴族の様子をみていきます。

寛仁3年(1019)4月17日、九州の大宰府から朝廷に緊急の報告がもたらされました。刀伊の船団50余りが対馬に来襲し人々を殺害したり連れ去ったり、あるいは村々に放火をはたらき、さらに壱岐では役人が殺害され、九州本土にも襲来したので、警戒を強めて応戦を行っているというものでした。

それに対して実資ら中央貴族は、刀伊を追討すること、戦闘で功績のあったものには褒美を与えること、山陽、山陰、四国地方の警戒を強めることを指示するのですが、それと同じ比重で大宰府の報告書の形式に誤りがあることが議論され、実資は自分が先例を確認して北陸地方も警戒地域に組み入れさせたことをわざわざ注記しています。

4月25日ふたたび大宰府より報告が入り、大宰権帥(ごんのそつ)藤原隆家らの活躍で、敵が退散したことが明らかになりました。大宰府から今回の戦いで功績のあった者が報告され、6月29日に行賞に関する会議が開かれます。4月の命令で褒美が約束されたためです。実はこの命令が大宰府に届く前に敵は追い払われていたので、命令到着前の功績は今回の褒美の対象外であるという反対意見が書家としても有名な藤原行成(ゆきなり こうぜい)らによって出されます。これに対して実資は事前の通告がなくても功績があれば褒美を与えるのが当然であり、実際寛平6年( 894)には対馬を襲った新羅の賊を追い払った者に褒美を与えているがこの時は事前に通告はなかったと述べ、結局実資の意見が採用されています。

平安貴族はこの事件のような緊急時にも先例を重視していました。しかもそれは現在のわれわれからすると問題の本質から離れた瑣末な事柄に関する場合も多かったのです。それでもこの事件の対応が新たな先例となっていき、小右記も実資の子孫によって書き写されていきました。

 
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