アーカイブの考察

 

柳沢吉保の家系図作成

山梨県の石和温泉にある県立博物館で2010年10月9日~12月6日に「甲斐源氏~列島をかける武士団」という展示が開かれておりました。
甲斐源氏とは平安時代の後三年の役(ごさんねんのえき)で兄の源義家ともに活躍した義光の子孫のうち甲斐国を根拠としていた源氏の一族をさします。当初は常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)を拠点としたことにちなみ武田を名乗りました。甲斐に移り勢力を伸ばし、源平の戦い(治承寿永(じしょうじゅえい)の内乱)以降室町時代にかけて甲斐国外にも進出し、若狭、安芸で守護に任命された武田氏、信濃の小笠原氏、奥州の南部氏などがしられ、江戸時代まで各地で活躍しました。ちなみに武田信玄は安芸武田氏の系統です。
この展示では時間的にも空間的にも広がり、礼法など分野でも広く活躍したことを示す甲斐源氏関係資料が数多く展示されており、その影響力の大きさを知ることができました。

そうした展示の一つに江戸幕府第五代将軍綱吉の側用人であった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が作成させた系図「清和源氏武田流甲斐国主系図」(せいわげんじたけだりゅうかいこくしゅけいず)があります。吉保は宝永元年(1704)に甲府藩主に任じられますが、藩主時代に作られたようです。この系図は吉保が甲斐源氏の末裔であり、信玄や勝頼など戦国大名武田氏の正統な後継者であることを示すために作成されたと解釈されています。柳沢氏の先祖は甲斐源氏の末裔とされる甲斐国の土豪の出身ではありますが、信玄らとのつながりは定かではありません。しかもこの時代吉保は江戸幕府で大老格となり巨大な権力を握っていたので、現在から考えるとわざわざこのような系図を作る必要はないようにも思えてしまいます。しかしわざわざこのような系図が作られた背景を考えることで当時の人々の甲斐源氏認識のなど意識を知るための貴重な材料となっています。

話は現代に飛びますが、最高裁で家系図作成をめぐる裁判の判決がでました。主旨は行政書士以外が業務として作成しても違法ではないというものでしたが、実際には行政書士が作成することに重点を置いた系図作成業者が多いようです。系図作成を依頼する直接の動機はそれぞれだと思いますが、そこにはこの時代に共通の認識が隠れているのかもしれません。

※今回のコラムで「清和源氏武田流甲斐国主系図」については上記展示の図録を参考にしました

 
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